わが居住地域も、昨晩今年初めての積雪になりました。やっと冬将軍の到来です。11月に入っても生ぬるい日が続いて、正直気色が悪かったのです。(先週の科学の祭典は好天でよかったのですが・・・)
もう少し寒くなると、風のない夜にしんしんと雪が降り積もるときがあります。夜遅く帰宅すると、我が家の小さな庭が家からもれ出るわずかな光に反射する雪の結晶で、きらきらと輝いているときがあります。おもわず30分近く見とれることがあります。積もってすぐにかたちを崩し始める儚さとその美しさに、その場をはなれ難い気持ちになるのです。私は、雪の結晶のファンです。
江本勝氏の「水からの伝言」が、ニセ科学ひとつの代表例としていくつかのサイトで取り上げられています。
私は、江本氏の著作「水は答えを知っている」を持っています。本屋で手に取ったときに綺麗な結晶の写真が豊富に掲載されていましたので、迷わず購入しました。家に帰って読んでみると、これはトンデモ本だと分かりました。
「ありがとう」とかの言葉では美しい結晶になり「ばかややろう」とかの汚い言葉では醜い結晶になる、という主張が多くの写真と対にされて延々と繰り返されています。
少しでも実験をしたことのある人ならすぐに気がつくことですが、いっぺんにこれほどの成功事例あるはずがないということです。これを事実というのならば、事例とともに再現性についての記述があるべきです。仮説どうりになるときの条件と、仮説どうりにならない場合の条件が示されなければなりません。江本さんの本では、それなしに、「世界が注目・・・」と「××博士」が登場してきます。これは、根拠のないことを信じさせるときの常套手段。私は、例証と「外国でも・・・」と「権威ある博士によると・・」の組み合わせが出てくると、いったんその主張は私の頭の中の「インチキ」フォルダーに格納することにしています。
江本さんの説には、色々な反論がありますが、私は小田隆さんのこの反論が核心をついていると思います。
「美しい音楽を聞かせると、美しい結晶ができるという主張もあるようですが、日常的に極めて汚い言葉を使っていたモーツアルトの音楽での効果は、いかほどのものなのでしょうか」
シェークスピアの戯曲の上に載せると、どんな結晶ができるのかも知りたいところです。
「水からの伝言」に対する科学者としての反論としては、田崎さんという方のこちらのページが正当なものだと思います。
ただ私は、世の中で科学的事実が認識過程を捨象して、体系として結論だけが教えられていることにも科学者は眼を向けてほしいと思います。極端になると例示だけで説明を済ませていることもあるでしょう。
例えば水の電気分解。「マイナス側にたまった気体に火をつけると“ポッ”という音がする。水素であることが分かりました」という説明に、「どうして“ポッ”という音がすると水素だといえるのですか」という疑問に教師は答えてくれない。場合によっては、授業妨害者として排除されるのです。本当に水の電気分解ができるのかと自分でやってみると、できない。調べてみると学校でやった実験は、水酸化ナトリウム水溶液の電気分解であったことを知り、やる気をなくす少年もいるのです(誰のことでしょう?)。「水は電気分解される」という科学的事実を、しかしあの程度の実験で信じた人には、江本さんの「実験」も説得力を持つだろうと私は考えますが、いかがでしょう。
人はどこかで「神秘」を信じたい。そこに「美」と絡めて「科学」の装いをして色々なものが登場しています。「自然の中の黄金比=神秘」説もそのひとつでしょう。
科学的な装いを凝らした神秘を語らなければならないような「数学」も「道徳」も「美術」も、もうそれ自身が腐っていると私は思います。
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